行き先を知らない日帰り旅——水の町、三島へ

2026年07月05日

朝8時半、行き先を知らないまま家を出た。

計画したのは相方。ウィークデイの僕の疲れ具合を見かねて、ミステリーツアーと称して、内緒で日帰りの旅を組んでくれていた。ミステリーツアーとはいえ、案内役の相方は方向音痴なので、ふたりして迷子になるところまで込みの旅ということらしい。今年の2月に愛犬のコロを見送ってから、僕たちは週末、ふたりで小さな旅に出るようになった。そして当日の朝、僕が知らされたのは、乗り換え案内に必要な「三島」という地名だけ。横浜から東海道線を乗り継いで、2時間弱。そこで何が待っているのかは、着くまでわからない。

紫陽花越しに見る源兵衛川の石橋と、堰を流れ落ちる水

ひとつだけ、自分に決めごとをつくった。マップとSuica、ランチの検索以外、画面を見ないこと。仕事では1日に10時間以上モニターに向かっているので、この日くらいは目と頭を画面の外に置いておきたかった。カメラは持った。ファインダー越しの時間は、画面を見る時間とは少し違う気がする。

水音が先に聞こえる道

三島駅から歩いて5分ほど。住宅のあいだを抜けると、水音のほうが先に届いた。源兵衛川。富士山の伏流水が湧く楽寿園の小浜池から流れ出す川に、飛び石や木道の散歩道が続いている。

源兵衛川の飛び石とオレンジ色の花

蒸し暑い日だった。空は午後から降り出しそうな鈍色。それでも川の上だけは風が抜けて、車の音も届かない。連日の雨のせいか、水かさはいつもより多いという。飛び石をひとつずつ渡り、低い橋の下を、頭をかがめてくぐる。飛び石は行き違いができないので、地元の人が、こちらが渡りきるのを待っていてくれる。会話は自然と途切れて、足元に気持ちが集まる。ひとつ、またひとつ。途中の岩にカルガモがいて、羽づくろいをしていた。

源兵衛川の岩の上で羽づくろいをするカルガモ

散歩の犬が、飛び石の手前で足を止めていた。渡ろうか、渡るまいか。次の一歩を迷う後ろ姿に、少し親近感がわく。

飛び石の上で立ち止まる散歩中の犬

途中の岸辺で、相方は靴を脱いで素足を流れにさらした。しばらくして引き上げた足は、スネから下が冷たさでほんのりピンク色。僕も真似をしてみる。足の裏から膝の下まで、湧き水の冷たさがゆっくり上がってくる。あとから思い返しても、僕にはこの時間がいちばんだった。

少し先で、地元の子どもが川に飛び込んだ。あとから大人も水に入っていく。木々が覆いかぶさるように茂った下を、あまりに透明な水が、暮らしのすぐそばを流れている。相方がいちばん気に入ったのは、この風景だったと、あとで聞いた。

飛び石の上で、思い出したことがある。子どものころ、千葉の田舎の家の近くにも小さな川があって、よく川の中をのぼって遊んだ。おたまじゃくしと小さな川魚。蜂に追われたこと。半分だけ砂に埋もれたコーラの空き瓶。木々のあいだから落ちる木漏れ日。たぶん四十年ぶりに思い出した。

わからないまま、立ち止まる

川沿いの道は、途中で蓮馨寺というお寺の敷地のなかを通る。正門を出る手前、「芭蕉老翁墓」と刻まれた石に、ふと足が止まった。芭蕉。墓なのか、句碑なのか、供養塔なのか。スマホを開けば数秒でわかること。でもこの日は開かない約束なので、わからないまま、しばらく石の前に立っていた。調べるのは帰ってからにして、また川沿いの道へ戻った。

蓮馨寺の「芭蕉老翁墓」と刻まれた句碑

この日、唯一のコーヒー

昼は駅の近くの鮨割烹へ。僕は握り、相方はばらちらし。魚が新鮮で、おいしい昼食だった。食後に出された一杯が、この日唯一のコーヒーになった。

じつは相方には、楽しみにしていたカフェがあった。ところが店の前まで行くと、扉にはCLOSEDの札。「それもご縁」と相方はあっさり引き返した。僕はまだ、こういうふうには引き返せない。

ダイヤ柄のカップに入った、ふたり分の食後のコーヒーのイラスト

湧き間の青

昼のあと、タクシーで柿田川公園へ。三島の隣、清水町にある公園で、国指定天然記念物・柿田川はここから始まる。1日およそ100万トンとされる湧水の川。第2展望台から見下ろすと、丸い井戸の底に、吸い込まれるような青が広がっていた。かつてこの地にあった紡績工場が井戸として使っていた跡だという。砂を巻き上げながら、いまも水が湧きつづけている。

柿田川公園の展望台から見下ろす湧き間の青

しばらくふたりとも、黙って見ていた。売店でいちご味の豆腐アイスを買って、木陰のテーブルでひと休み。カップには「柿田川 湧水の道」の文字。

「柿田川 湧水の道」のカップに入ったいちご味の豆腐アイス

茅の輪の残る境内

公園前からバスで三島駅の方面へ戻り、最後に三嶋大社へ寄った。駅から歩いて15分ほどの、三島の中心にあたる場所。七月はじめの境内には、六月末の夏越大祓式の茅の輪がまだ残っていて、竹には歌が掲げられていた。「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶというなり」。作法にならって八の字にくぐり、半年ぶんの区切りをつけた。

三嶋大社の茅の輪に掲げられた夏越の祓の歌

帰りの電車で

帰りの電車で、コロがいた頃から調べていた場所なんだ、と相方がぼそっと言った。いつかは犬も一緒に、と思っていたらしい。普段はなんでも話すふたりなのに、僕はこれをはじめて聞いた。ずっと黙っていたことに、少し驚いた。

この日、僕がやったことといえば、乗り換え案内くらい。行き先は相方に任せて、スマホはマップとSuicaとランチの検索だけ。知らない名前に出会っても、その場では調べない。そう決めて歩いた一日は、思っていたよりずっと長かった。

離れたかったのは画面そのものというより、「すぐにわかること」からだったのかもしれない。水音のする道では、次の飛び石のことだけを考えていた。

翌日、あの石のことを調べた。芭蕉の墓ではなく、「いざともに穂麦くらはん草枕」の句を刻んだ句碑で、碑の下には遺髪が納められていると伝わるとのこと。一日遅れの答え合わせも、旅の続きのようで悪くない。

次の行き先も、僕はたぶん当日まで知らない。それがいまは、いちばんの楽しみになっています。

この日の工程(2026年7月上旬・訪問時点)

  • 横浜駅から東海道本線で三島駅へ(熱海乗り換え・2時間弱)。源兵衛川へは駅から徒歩5分ほど
  • 源兵衛川は楽寿園の小浜池から中郷温水池まで約1.5km。飛び石や木道を歩くので、増水時は足元に注意
  • 柿田川公園(静岡県駿東郡清水町)へは三島駅南口からバスで「柿田川湧水公園前」下車。私たちは昼食後にタクシーを使った
  • 三嶋大社は三島駅から徒歩15分ほど。茅の輪は例年6月中旬ごろから立つ(残る期間は年により異なるよう)
  • 営業時間・開園情報は変わることがあります。お出かけ前に各公式サイトをご確認ください